
カント哲学で、人の思考力の領域は、以下のように定義されています。物理学で長さと重さを分けて考えるように、
人の思考能力の解明にも分解の手法がとられます。
感性:対象をとらえる
悟性:形式を適用する
理性:原因を用意する
理性を根拠とすることは、対象が想像によるものとなるため、論理的な思考について成功する理由は、
偶然以外にはありません。
しかし、美的な思考について成功する理由は、可能です。
美の現実は、事物に関し、人の内面から世界が発し、人の内面の感動で帰結するもの、だからです。
理性において、人は世界に先立って原因を不定に用意するのですが、論理的思考では仮説の機会となり、
美的思考では創作と鑑賞の前提となる、という言い方もできます。
彫像の向こう側に世界が感じられるのも、能を観ると世界が発するように感じるのも、観る側と創る側の双方で、
調和を利用して世界の原因を用意する思考の働きによるためです。
調和は合目的性として観察されます。
技術は外的合目的性と合法則性の双方による発露で、芸術は内的合目的性の発露です。
このことから、技術という現実化のエッセンスを間接的にでも採用すると、
理性の原因を用意する能力は、実態である可能性として、
現出することが理解されます。
現実に可能性を扱える場合、理性がもともと用意することのできる原因一般は人間の作業の対象となります。
この原因一般を普遍的可能性と呼ぶのはふさわしい命名でしょう。
普遍的可能性が単なる思考上の概念ではなく、可能性を媒介とした現実であることは、
人類が芸術により美で原因を現している現実と、
芸術と技術に共通の性格があることにより、確認されます。
原因は美的なものとも言えるのは、ロマンチックではないでしょうか。
私の1997年までの成果から、理性の芸術の基本にあたる普遍的可能性を簡単にご説明しますと、
上述のようになります。
そして、普遍的可能性が在るだけで、ガラス玉遊戯が現実となるために、十分でしょう。
一つのことを実現するには、まず無駄とも感じられるような広範な試みが重ねられますが、
私が「基本」と述べたエッセンスからそぎ落とされている他の部分も体系に属するものであり、
ヘッセとは異なった視点から理性の芸術を可能とする根拠が、多角的に見出されております。
普遍的可能性は、1998年に成立をご報告しました「総合」という技法に当然として含まれておりましたが、
分離することで、シンプルな独立した方法となりました。
「総合」はヘッセのガラス玉遊戯で言えば「主導理念」を扱えるもので、
詩の一片から可能性を現出することができます。
その他もできます。
総合の実際は、普遍的可能性の実践なしには、意味をなさない、意味が理解されない種類の、方法です。
2002年以降は、理性の芸術の全ての方法の原理にあたるものの探求と超越を求める活動がされており、
現在も継続しております。
この解明に用いられる思考の素材を求めると、1988年よりも前からつらなっていることが理解されます。
「私のただ一回の生の意味を確かめたい」という取り組みの結果として現れたものは、
目標達成への取り組みの素材として利用されるものに変わっています。
私に限らず、どの時点が始まりで、どの時点が結果かは、誠実な活動を続ける人にとって、
明確にできるものではないようです。
その人が何を成せるかは、その一瞬一瞬が何に捧げられているのかに従うものだと、あらためて感じられます。
自分の寿命を超えた未来に夢を持ち、取り組んでいくのが良いのでしょう。
2004年3月28日
リンク 更新2005年3月20日
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